日本共産党柏原市会議員 橋本みつおのブログです。

28日は柏原歴史探索ハイキングを行います

柏原歴史探索ハイキングのご案内です。

主催は、日本共産党柏原東、西地域後援会です。

日時ー5月28日(日) 

集合場所・時間ー近鉄安堂駅ロータリー 9時30分 解散13時頃

持ち物ー弁当🍱、水筒🍵

コースー大平寺「石神社」「高井田横穴公園」「柏原市歴史資料館」

橋本みつおがガイド役を努めます。

(現在、歴史をもう勉強中)

予定をしていませんでしたが、市役所近くにある、大和川の付けかえに功績を残した「中 甚兵衛」の碑もご案内します。

  

○石(いわ)神社の境内にあるクスノキは、周囲約6m・高さ約16m以上の大木で、樹齢700年と推定され、大阪府指定天然記念物になっています。

○高井田横穴墓群は、総数200基以上の横穴墓があり、古墳時代の線刻画を伴うことで有名。国指定の史跡です。

横穴4

○歴史資料館は、市内の発掘調査で出土した考古資料をもとに、旧石器時代から近世までの柏原市域の歴史を紹介する資料館です。

大和川付替えと「中 甚兵衛」

河内平野を幾筋もにわかれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付替えられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付替えの実現までには、50年近くの月日を要しました。
その間にも幕府は何度か付替えの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止。しかし、3年連続して河内平野がすべて泥海と化すような洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣工事を行います。
この工事で淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋はいっこうに改善されず、河床には土砂が堆積して田畑より3mも高い天井川になってしまいました。
しかも、幕府は付替え不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、 付け替えの要望ができなくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。 しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。この付替え促進派で終始運動の中心にあったのが代々の今米村(現在の東大阪市今米)の 庄屋に生まれた中甚兵衛で、同士の芝村・曽根三朗右衛門や吉田村の山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、 最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。
中 甚兵衛、付替え時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして永遠の眠りにつきました。

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