日本共産党柏原市会議員 橋本みつおのブログです。

柏原市の木・花

10日(日)は、コットンの日。

しんぶん赤旗配達。

記事。

「証拠は誰のもの」/再審法 第三者へ提供禁止案巡り/日弁連がシンポ

母の日でした。

妹のなおみちゃんが母親にプレゼントしたカーネーション。

柏原市の綿産業。

コットンの日なので。

柏原市のホームページより。

 

 旧大和川の久宝寺川を中心に、剣先(けんさき)船(ぶね)という船が行きかっていました。その名のとおり先端が剣のように尖り、底が浅く平たい川船でした。長さ17.6m、幅1.9mの大きさで、付け替え前には311艘もの剣先船が営業していました。剣先船は、流域各地だけでなく亀の瀬まで荷を運び、地域の経済発展に大きな役割を果たしていました。ところが、付け替えによって、築留(つきどめ)堤防から上流へ船を上らせることができなくなり、剣先船は十三間(じゅうさんげん)川(がわ)から新大和川の河口へ入り、新大和川を遡ることになりました。
 旧大和川に設けられた長瀬川や玉串川には、新たに井路川(いじがわ)剣先船(けんさきぶね)が運航することになりました。それまでと比べて船の役割は小さくなりましたが、旧河床に開かれた新田で綿栽培が盛んに行われ、その肥料を大坂から運び、製品を大坂へ運ぶために船が利用されました。綿を栽培するためには、干(ほし)鰯(か)や油粕(あぶらかす)などの肥料が必要で、その綿からつくられた綿糸や、河内(かわち)木綿(もめん)として流通した反物(たんもの)などを大坂へ運びました。それ以外にも、米や野菜も運んでいました。
 各地でつくられた綿は、八尾や久宝寺などの綿(わた)問屋(どんや)が一手に売りさばいていましたが、綿の買値などをめぐって何度も訴えが出されています。旧大和川流域の村々にとって、綿は現金を得るための商品作物であり、綿問屋などが出現することによって売買のための経済機構が整ったのですが、それは必ずしも村々の利益を生み出すことにはならなかったようです。
 綿は明治になると海外からの安価な輸入綿によって、次第に生産が減っていきました。しかし、その技術は浴衣や染色などの地場産業として、今も残されています。長瀬川や玉串川が、大阪の経済の発展にも貢献しているのです。 (安村)

 

午前は、本郷事務所の方と地域訪問を行いました。

素敵な出会いもありました。

希望の星のように思えました。

 

市民交流センター(旧サンヒル)の不満をお聞きしました。

 

午後からは、大県事務所でミニ集いを行う予定でしたが、打つ合わせ会議になりました。

衛生班の方からの指摘を受け、座布団カバーの洗濯とバルサンをたくことになりました。

 

夕方からは、存続の会の方の依頼を受けて訪問活動を行いました。

 つつじ

 

市の木 このてがしわ

市の木


「このてがしわ」

このてがしわは昔から柏(かしわ)とよばれています。 ひのきににた葉は、手のひらをたてたような形なので、この名があるといわれています。

 

 

市の花 つつじ

市の花


「つつじ」(さつきを含む)

むかし安宿(やすかべ)つつじとして 柏原市の玉手山一帯は有名でした。 種類が多く、さつき、ひらどなどもこのなかに 含まれます。

柏原市の木と花は昭和48年11月3日制定されました。

 

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