近畿大学の学生時代(青春時代)
小学校(堅下小学校)の時は、恩智川沿いは補装されていませんでした。
大和屋さん(実家)は、「みっちゃん店と言われていました。


5日(火)は、タクシーの日。
1912年(大正元年)に営業開始。
しんぶん赤旗の主張。
パレスチナ国家承認/米の顔色見ず日本も踏み出せ
記事。
「消費税減税は民意」/衆院予算委 田村貴昭氏、石破首相に迫る
腰が痛くて予定していた駅宣伝は、延期しました。
午前中は、大県事務所の地域の方と訪問活動。
お茶の差し入れもありました。
ありがとうございました。
小学校の校門の前でウロウロしている児童がいました。
「どうしたん」「学童行きたいけど校門しまってるねん」とのことでした。
校門には、職員室用と学童専門のインタホーンがありました。
「ここ推したらええよ」と教えてあげました。
無事には入れてよかったです。
午後からは、大県事務所の会議に参加。
駅宣伝の参加のお願いをしました。
夕方からは、大県事務所の方と地域訪問を行いました。
汗だくの訪問でしたが、後援会の皆さんの暖かい言葉がけに励まされました。
夜はオンラインでSNS会議が行われます。
近畿大学商経学部経営学科(当時)に入学し、盲福祉のボランティアクラブ「社会福祉すみれ会」(文化会)で活動しました。
点字を打ったり、視覚障害のある子どもたちとキャンプに行ったり、大阪市立盲学校の運動会のボランティア等をしていました。
小学校の特別授業で点字を教えにも行きました。
過去のブログから。
私は、当時クラブ(文化会社会福祉すみれ会)で綿菓子販売をしていました。
100円でした。
実は、嫁さんも学祭に誘って来てくれました。
なぜか、トライくんもいました。
法学部の校舎を入るとすぐ左手に、世耕像があります。
以前は、水⛲がはらてていました。
今はありません。
理由は、学祭の最終日の最後に文化会系のクラブで3回生を胴上げし、最後は池にはめるのが慣例でした。
大学側からは、ガラス片もあり、危険⚠ということで禁止されていましたが、その頃の私たちは、云う事を聞きません❕でした。
英字新聞に記事にされてしまいました。
こんな経緯があったことは、今の学生さんは知らないでしょう⁉。
当時は、2泊3日の泊まり込みでした。
教室が展示会場(点字教室、視覚障がい者の方に対しての歩行訓練等)であったので、寝袋💤で泊まり込みでした。
一緒に写っているのがななんと、当時の近畿大学総長の世耕政隆参議院員(和歌山選出)です。
こんなこともやっていました。
午後10時に学祭終了後、クラブセンターに集まり、長瀬駅まで(800メートル)ダッシュ🏃をします。
下級生は、上級生に抜かされる💨とケツバットされます。
長瀬駅についてから、今度は、歩きながらゴミを拾い✌大学まで戻ります。
セラー服を着ているのが、私です。(妹から借りました)変態では、ありません❗
懐かしー🎶。青春を感じていました💕。
「あの頃、君はー、若かかったー✨」です。

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