日本共産党柏原市会議員 橋本みつおのブログです。

青年会議所と懇談会を行いました

14日(火)は、世界糖尿病デー。

 

しんぶん赤旗の記事。

柏原東高校もつぶされました。

 

 

時間がたっぷりあったので、昨日行われた10中総(専門用語)の志位・小池さんの文書を読みました。

強く大きな党をつくり 日本の“夜明け”を開こう

 

明日のしんぶん赤旗で大会決議案(5ページ前後)が出るかな。

 

登校見守り挨拶活動。

 

冷え込んだ朝でした。

柏原市は、9℃です。

 

カーブミラーも曇っていました。

 

高校は、土曜日に授業参観があったため昨日は、振替でした。

 

小学4年生のお友達。

「社会科見学で大和川の付け替え見に行くね」と教えてくれました。

 

妹さん。「歯がぐらぐらしてるねん」

「大人の歯に入れ替わるんやん、あんまり触ったらあかんで」とお話ししました。

 

439という数字は、約1時間で「おはようございます」と挨拶した回数です。

小・中・高校生をはじめ、散歩・自転車・バイク・自動車の等、私の前を通られた方々です。

 

市役所へ。

 

幹事長(各会派の代表者会議)が行われました。

市長から人事案件の方向がありました。

 

多くの案件について話し合いを行いました。

お昼休み。

 

河川敷でお弁当を食べていました。

 

いいお天気でよかった。

 

バスで他校の生徒さんも来ていました。

 

午後からは、柏原市青年会議所から要請があり、市議会として懇談会を行いました。

 

有意義な意見交換が出来ました。

 

大和川の付け替え。

古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。

当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。

中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発で、流域には八尾久宝寺(ともに八尾市内)といった集落が発達した。

このため、中世には大和川は一部地域では久宝寺川とも呼ばれていた。

しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。

大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地奈良盆地で蓄えられた多量の水を吐き出すために、急流となり、大和川の通常の流れである蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し水害となるのである。

また河川の勾配が大阪平野に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。

近世、大和川は豊臣秀頼の重臣片桐且元角倉与一の開発で亀が瀬(大阪府柏原市)まで「剣先船」という船での水運が開かれ、それより上流は、「魚梁船」という「剣先船」より小型の船で水運が開かれて輸送量を増やすことに成功している。

近世の大和盆地では、水害対策と旱魃対策を兼ねて多くのため池が作られるようになった。

これは、旱魃に遭った際の農業への打撃を減らそうという上流の百姓と、大雨の際に被害にあう下流の百姓の利害が一致し、両者の協力により推進された。

その結果、現在でも大和と河内の農家の多くは江戸時代に親戚関係を結んでいた記録が多い。

しかし、それでも水害対策としては万全ではなかったため、1657年頃、河内の百姓が「大和川の流れを九十度転換すること」を考案して江戸幕府直訴したが、多くの資金の要ることであったため幕府も容易には応じず、約50年にわたって付替の運動が展開された。

その運動の中心人物となったのが今米村(現在の東大阪市)の庄屋中甚兵衛である。

既存の田畑からの年貢収入が守られることに加え、大和川の注いでいた深野池新開池新田開発も可能となることから、幕府はその熱意と計画内容が妥当であると判断し、新川の付替に動いた。

しかし付け替え予定の地域に住む百姓たちの間から、村が分断されたり、田畑が川底になり生活ができなくなるなどといった理由により、強硬な反対が起こった。

そのため幕府は付替を行わず、水害対策のために大規模な改修工事を行ったが水害は治まらず、1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。

3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。

その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。

それ以前の大和川は大阪平野を北流し、淀川(旧淀川)に注いでいた。

その大和川の旧河道の位置に現在も流れているのが長瀬川であり、戦前までは川幅は河川敷を含め30m程あった(現在の川幅は5m程)。

そのため戦前までは、流域の農家の多くが、天満青物市場まで船で作物を出荷しており、記録および写真として残されている。

そのため近年では、大和川は付け替えられたのではなく、分流させたのだとする説もある。

高度成長期になると、新しい大和川へ多くの水を流すようになり、かつての大和川の諸流は埋め立てられ、長瀬川も農業用水路として、後には工業排水用の水路として細い流れを残すのみとなった。

しかし、その工業排水によって汚染されることになり、八尾市東大阪市大阪府・旧建設省(現在の国土交通省)が中心となって水質改善を進めて今に至っている。